ある女友達の友人が、本物のクズ男とつきあっている。
毎回、そのヤバイ男と付き合っている女の子の話を聞くたびに、
典型的な「共依存」だなーと思う。
女の子は、男と半同棲状態で、家事全般はもちろん、基本なんでもしてあげる。
男はたまに浮気したり、わがままを言ったりして横暴らしい。
お互いに複雑な家庭環境で育ったため、身内と呼べる人が少ないらしく、
どんなにダメでも許しがち。
その女の子と親しい私の友人は「はやく別れればいいのに。もったいないよ」と言う。
私は、多分なかなか別れられないと思う。
だってこの女の子は、彼にいろいろしてあげるのが好きなんだよ。
いろいろしてあげてる自分が充実してて良いのだ。
依存は自分から断ち切って、
自分で立たない限り、毒の多い関係になってしまう。
悲劇のヒロインぶって同性の同情はひけても、その男と時間を過ごすのは自分。
友人は「そのうちDVになるよ」と話すけど、私もそう思う。
DVとか引くわ!
DVで思い出すことがある。
今でこそ、DVという言葉がちゃんとあるけど、
ばーちゃんの時代にはなかった。
うちの死んだじーちゃんはすごく酒癖が悪くて、
酒を飲むと暴れるから、ばーちゃんは若い頃とても苦労しただろうなと思う。
じーちゃんが亡くなった時、ばーちゃんは「じいさん、死んでしもたんかえ?」と言いながら、
起こすように頬を結構な強さで何度か叩いてた。
もう、音でるくらいベチベチッって。
不謹慎だけど、あまりにも強くて「ええっ?!」ってビックリしたの覚えてる。
イヤイヤ過ごしたであろう、ばーちゃんの結婚生活の恨みと、
「あばよ、じーさん!」的な、小さな仕返しがこもった数発だった。
じーちゃんとばーちゃんの関係が共依存がだったかはわからないけれど、
結婚すればある程度、精神的な共有部分は増えて、依存も出てくる。
相手によっては、嫌なことが多々あるけど許して目をつむり、生活していかなきゃならないという、大我慢選手権になる可能性もある。
友人の友だちの女の子も、そのクズ男とジジイババアになるまで居て、
死別した時、どうなるのかなと思う。
「⚪︎⚪︎君がいなきゃ私はダメ!」
とか「⚪︎君は私が居ないと何もできないの!」
はロマンチックでキレイだけど、健全じゃないし嘘だ。
「私がいなきゃ廻らない世界」なんて本当は無くて、
「私がいなくても廻るんだけど、私の意志でここに居たいから、居る!」って方が、
正確な気がする。
「彼は私がいなくても大丈夫だろうけど、
私がクズ彼と過ごすのがエキサイティングで世話したいから一緒に居る!」が深層心理じゃないのかな。
その方がエネルギーになり、自発的だし、
間違ってたなと気づいた時に反省できて成長につながる。
自分の目が間違ってたんだなーって。
居続けることが厳しい環境であれば、努力するし、我慢もするし、がんばる。
肝心なのはその「場所」が、「居るに値すべきところか?」ということ。
居心地の良い場所は、クズ男との恋愛だったり、
ブラック企業での無意味な残業だったり、無自覚ならことも多いから、
気をつけたいところ!
今度、「人を見る目」について話したいと思います。